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シリーズ連載

シリーズ連載 : 中小企業向けの財務管理【第1回】

第1回(全6回) : 中小企業向けの財務管理について

執筆者 : 公認会計士・税理士  前川 修満

 

 はじめに

 「安い中古車を集めろ。できれば50万円以下で売れるものがいい。東北地方の被災者に売るのだ!」

 これは、筆者が、ある会社で伝聞した話です。その会社は、自動車関連事業を営んでいますが、今回の震災の直後、その会社の社長は、冒頭の言葉を発したあと、社員にこう訓示したそうです。

 「テレビの映像を見ると、津波で彼らの自動車は巨大な粗大ゴミになってしまった。だが自動車は彼らにとって生活必需品だ。これがないと生活も仕事もできない。しかし、大半のひとたちは、震災で経済力が低下している。だからこそ、被災地には安い中古車が必要なのだ。」

 この話を聞いたとき、筆者は、この一言が、大震災に直面した経済社会における産業人が果たすべき役割をズバリと指摘していると思いました。

 ところで、筆者の職業は公認会計士・税理士であり、本稿も、本来ならば、筆者の専門領域である「中小企業における財務・会計・税務」の話をじっくりとお話しするのが常です。しかしながら、今回は大震災の直後ですので、震災後という特殊な経済状況に直面した企業家(産業人)がどのような点に注意すべきかを考えたいと思います。

 

 歴史の教訓―関東大震災

 その前に、過去の災害の事例を紹介したいと思います。

 日本経済が、天変地異ともいうべき大震災に直面したのは、今回が初めてではありません。

 過去の大震災の中でも、最も甚大な損害を被ったのは、今から87年前(大正13年9月1日)の関東大震災でありました。この9月1日というのは、現在、「防災の日」としてよく知られています。このときの被災は、東京、神奈川、埼玉、千葉、静岡、山梨、茨城の7府県にわたり、死傷及び行方不明者15万7千人、総被害額は45億7千万円(当時の通貨発行高は約11億円)という空前の大震災でありました。今日、日銀券の発行高は約80兆円ですから、当時の45億7千万円の損害がいかに巨大であったかが窺えます。

 なかでも、金融業の損害は凄まじく、当時、東京には138もの銀行の本店があったのに、地震によって、そのうちの121行が消失しました(無事だったのは、勧銀、興銀、三菱、小池、麹町等のごく一部の銀行のみ)。

 このとき、政府は、矢継ぎ早に、治安維持令、モラトリアム、暴利取締令、震災手形割引損失補償令を出すばかりでなく、生活及び復興物資に対する輸入税の減免措置を講じました。

 また、日銀は、震災から6日たった9月7日に、市中銀行に能う限り援助する旨を公表しました。それで、翌日の9月8日に、ようやく、勧銀、興銀、三菱などが再開業するに至りました(その間、銀行はすべて閉店し、金融機能は完全な麻痺状態となってしまいました)。

 また、東京株取引所も、市場が再開したのは震災から2ヶ月ほどたった10月27日であり、米穀取引所の再開はさらに遅れて11月6日でありました。これだけをみても、当時の震災の悪影響がいかに甚大であったのかが推測できます。

 しかし、関東大震災の痛苦がいよいよ如実に表面化したのは、震災直後の火事場的変態事情が収まってからであります。

 

 関東大震災復興時の政治情勢

 震災当時の日本政府の政権を担当していたのは、第2次山本(権兵衛)内閣でしたが、この年の12月27日に、難波大輔という無政府主義者が摂政・裕仁親王(昭和天皇)を狙撃するという「虎ノ門事件」が起き、その責任をとって山本内閣が総辞職します。そのあと清浦内閣においては、復興のために5億5千万円の外債発行をします。しかし、このときの金利は年8%という驚くべき高水準であり(ちなみに、日露戦争の戦費調達時の公債の利率は年5~6%)、当時、国辱外債と言われました。そのせいか、5億5千万円の外債を発行しながらも、実際の手取金は4億7千万円にしかなりませんでした。当時、日本の国力が衰退したうえに、遮二無二、急いで外債契約を結ぼうとしたことで、高金利を余儀なくされてしまったのです。

 さらに、清浦内閣は、震災の翌年の総選挙に敗れて、6月には加藤内閣が成立します。つまり、震災の後、1年もしないうちに、2度も政変が起きてしまったのです。震災の直後といえば、最も急を要する時期であったのに、その間、内閣は転々としてその方針は一貫せず、予算は成立せず、政務は渋滞して、復興復旧計画は予定通りには進捗しなかったのです。

 

震災景気の出現とモラルハザード

 とはいえ、外債によって集めた4億7千万円は、このあと、震災復興のための輸入を賄う資金となりました。利息の負担が重かったとはいえ、この資金は復興に寄与してゆきます。この翌年には、復興需要の増加に伴い、やや変則的ながらも、復興景気ともいうべき現象がおきます。

 ところで、表1の「手形交換所における不渡り手形」をみると、大正13年には、不渡り手形の発生が著しく減少しています。これは震災手形として日銀が救済した手形の中に、震災とは無関係に経営内容が悪化した会社の手形も紛れ込み、救済に値しない会社までもが救済されてしまったことによるものです。例えば鈴木商店はその代表例です。この震災直後、鈴木商店はどさくさに紛れてもともと救済不能であった手形を震災手形に紛れ込ませ、日銀の特融によって不渡りの発生を回避しました。これが結局、大きな痼疾となって、後の金融恐慌にまで続いてゆきます。

 

表1 日本四大都市手形交換所における不渡手形

 

投機による為替相場の大変動と円安対策

 この復興景気の中で、際立ってきたのが貿易赤字の拡大と円相場の下落でありました。震災前後は、百ドル=49円であった円相場は、震災後、漸次下落し、大正13年10月には百ドル=38円の水準になります。これは、日本の輸入超過もさることながら、海外の投機家たちによる思惑投機が盛んになっていったことが大きな要因です。

 しかしながら、円安の動きは、一方で輸出の増加要因にもなりうるのであって、円安それ自体は、経済にマイナスのみをもたらすものではありません。

 しかしながら、円安状況を憂慮した政府首脳は、この円安を防止する対策を講じます。正貨現送(金本位制化での通貨の輸出)の後、大正15年には、円相場が上昇(百ドル=48円)します。このような為替相場の乱高下は、投機筋による思惑によって形成されたものです。

 なお、加藤内閣(浜口蔵相)で採られた円安克服策には、上記の正貨現送だけでなく、金融引き留めと民間外資の輸入の抑圧などもありました。結局、これらの引き締め政策が、震災景気を終焉させてしまったのです。

 

当時と現代の異同

 関東大震災の話が長くなってしまいました。当時と現代とでは、日本の国情が懸絶しているので、すべてが同じように進んでいくということではありません。しかし、投機による為替相場の乱高下、困難を極めた経済復興、その中で生じるモラルハザードなど、今日においても類似した事象が生じることが十分に考えられます。

 月並みになりますが、これらの歴史的事実をみながら、筆者は、「結局のところ、この難局は、個々人の自助の精神で乗り切るしかない」と感じました。たしかに、中小企業庁のホームページなどをみると、緊急対策がズラリと並んでいます。しかし、これらの対策は、リーマンショックなど過去の不況期に行われた対策と変わらないように思えます。筆者の友人の銀行員は、「このような策など、「政府も仕事をしています」というお役所のポーズぐらいに思っていた方が良い」と言いました。結局は自助努力の有無が企業会社の明暗をわけるのです。

 なお、冒頭の話に戻りますが、筆者の関与先の経営者の中にも、目が半分、東北地方に向いている人がいます。かれらは、震災のあとの余興時に一役買おうという意識をもっております。彼らは、口が裂けても「大きなチャンスだ」と不謹慎なことはいいません。しかし、東北の復興には、彼ら(産業人)の力が不可欠です。栃木県は、東北地方に隣接する県です。栃木の経営者の皆さんには、大いに、この復興に寄与していただきたいと思います。

 なお、本稿は、地震直後だったので震災の話に終始しましたが、次号以降は、筆者の専門分野である企業財務の話をします。

 

 


 

 

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